200515 東京
- 光太郎 笠原

- 2020年7月23日
- 読了時間: 8分
更新日:2021年1月3日
20年の春の大きなトピックスといえば「新型コロナウイルスの感染拡大」。
日本中のみならず、全世界中を巻き込んでの大騒動。あらゆる経済活動、文化的事業が制限受けた。とにかく「Stay Home」とのお達し。家に居よう、どこへも行かないようにしよう、が合言葉だった。自分としても今まで経験したことない社会的な状況だったし、おそらくいま生きている世代誰もがそうだったんじゃないかと思う。
ランニング界も大きな影響受けた。2月半ばに高知龍馬マラソンに出れたけど、その次の週からは大規模なマラソン大会が軒並み中止。自分も3月以降にエントリーしていた大会が5つあったけど、すべて中止になった。それはとても残念なことだったし、それなりに気持ちも落ち込んだ。ただ、ランニング自体ができない訳ではなかったことがとても救いになった。
行政から活動自粛のガイドラインが示されて、「仕事はテレワーク」とか「買い物は3日に1回」とかの要請があり、行動に大きな制約がかかった。そんな中でも、ランニングについては、運動不足にならないようにむしろ推奨された感じだった。「原則ひとりで」とか「他の人と距離を取って」とかの前提はついてたけど、そんなことはすでに励行していること。これまでと変わることなく、走り続けられた。
とはいえ、ふらっと東京近郊の場所まで電車で出かけての遠征ランは自粛。スタート・ゴールが家のランだけにはなった。これまでも飽きないよう、日々コースを変えて走ってきたけど、よりお気に入りコースを増やそうと、いろんな道を開拓していった。10kmのコースは必然的に半径5kmの範囲になるんで、だいぶ限られる。そうなると20kmのコースでの選択肢を広げる。普段なら平日は10kmを走り、週一で20kmのロングランをするのが自分の中のリズム。ただ4月に入り、政府からの緊急事態宣言が出されると、会社からもなるべく出勤を控えるようにとの通達があったんで、週3日程度の出勤体系になった。そうなると出勤しない日には20km走ってみようか、という気持ちになる。ほぼ一日置きに20kmを走るんで、かなり走る機会は増えた。
荒川沿いを走ることが一番多い。小松川の方まで行くこともあったし、扇大橋を越えて舎人公園の方へ行くこともあった。堀切の先で折り返して、旧中川沿いを行くコースも悪くない。北十間川へつながり、そこも川沿いに戻ってくるコース。ここも何度か走った。この時期一番好きだったのは、青戸の方まで行って、中川沿いに走るコース。荒川まで戻ってくると、中川の支流にかかる東四つ木避難橋という橋を渡る。そこを渡り切ると真正面にスカイツリーが見えて、とても壮観だ。自分が知っているスカイツリーのヴュースポットの中でも一番好きだ。都心方面へも何度か行った。池袋方面から護国寺の方を通って戻るコース。会社までを往復するコースも走ってみた。人形町の方から、月島へ行くコースもいい。どこへ行っても人がいない。もちろん夜明け直後の早朝ってこともあるけど、時間関係なく街に人がいなくて、異様な光景だった。

3月は340km走った。4月に入って、さらに距離が増え360km。これが月間走行距離のPBになった。ここまで来ると400kmも見えてくる。5月はそこを目指すことが大きなモチベーションだ。
ただ体は重かった。4月の後半から休みなく毎日ラン。しかも1日おきに20kmを走る。GWは実家に帰ることもなく、東京の家でただひたすら過ごすんで、そりゃ毎日走る。足の付け根が痛くて、毎日走りだしの時にはすごくイタむ。これじゃ20kmは無理かなとも思うんだけど、そのうち体がほぐれてくると、イタみが和らぐんで、なんとか走れる。そんな状態で走ってたんで、結果的にはかなり身体に無理な負荷をかけてたんだろう。
5月15日の朝、いつも通り準備して外へ出ると、足の付け根の他にも左足の裏が少しイタむ感覚があった。その日は月島へ向かうコースを選択。そこから少し足を伸ばして豊洲まで回ってくることにした。前半は快調に進んで、無事に豊洲の方まで着けた。10km過ぎたんで、給水のためコンビニ休憩をする。水分補給もして、さあ後半となったところで、だんだん足裏のイタみが普通じゃないことを自覚していく。なんとか走れるけれど、いつものペースにはあげられない。かなり落として最終盤を走った。それでも最後の1kmくらいは歩かざるをえなかった。家に戻って、しばし休息。その日は出勤日じゃなかったんで、自粛期間中の恒例となってたファミレスでの朝のティータイムを過ごすため、再度外出することにした。ところが、足が痛くてまともに歩くことさえできない。仕方ないんで、自転車に乗ろうとしたら、なんとタイヤがパンク。悪いことは重なるもんだ。その日は足引きずりながら生活した。
これまで故障とは無縁だった。CBランニング部の集まりでもケガの話題になると、他の人があるある話で語ってるケガの遍歴のことが、さっぱり馴染みなくて会話に入っていけなかった。それはとてもいい事ではあって、自分の丈夫さを誇りに思ってたんだけど、自分も人並みにケガすることがわかって、慢心を改めるきっかけになった。
ケガに慣れていないということはケガとの付き合い方がわからないということ。基本的には自然治癒を待つんだろうけど、その間、走りたくて我慢できない。ケガの次の日の朝、いつものようにランニングする格好を整えて外には出て見たけれど、一歩走り出すととてもじゃないけど走れない。「こりゃ無理だ」と諦めて、ゆっくりウォーキングするに留めた。その次の日、同じように外に出て、一歩踏み出すと…。イタいけれど我慢すれば走れる程度の感覚。足引きずりながらゆっくり走ることにした。初めは「3kmでも」と思ってはじめ、そのうち5kmになり、「ここまで来たら」と10km走った。この時の達成感はそれなりのもの。その2日前まで隔日で20km走ってたのに、そんなことは忘れたように「よく走れた」って満足してた。その時々の達成感はその時限りのもので、今までの経験とかは関係なく味わえるものだ。後で振り返って見たら、ゆっくり10km走っただけのなんでもないランのうちの1回なんだけど、気持ちは満ち足りていた。
ただその次の日からはキツかった。まったく良くなるどころか日に日に悪化する感じ。さすがにランは中止にしたけど、ウォーキングはしていた。そのウォーキングですらかなりキツくなった。会社でもやや足を引きずり気味に過ごしてて、「どうしたの?」なんて心配された。ネットでこのケガのことを調べたら、「足底腱膜炎」の症状にぴったり符号する。足裏とかかとのイタみ。踏み出した1歩目が一番イタくて、歩いているうちに和らぐ。オーバーワークのランナーがなりがち。全部当てはまった。病院行こうとも思ってたけど、ネットで見るとこの症状を直すのに必要なのは「とにかく休むこと」。じゃあ行っても仕方ないと、とにかく回復を待つことにした。このケガの厄介なところは、朝起きた直後が一番イタむっていうこと。前日気をつけて足をケアし、少し改善したかなって感覚を持つ。そしていつも以上に夜早めに就寝。朝になり、ベッドから起きて一歩目を踏み出すと、激痛が走る。「こりゃ治らんな」って気落ちするのが精神的にしんどかった。
1週間くらい経って、少しずつイタみが和らいできた。テーピングの仕方も色々調べて、しっくりくるやり方を身につけた。イタみどめを飲むと一時的にケガのことも忘れられる。そんな状態で走ってみる。かなり気を使いながらにはなるけれど、なんとか走れる状態だ。足底腱膜炎は進んでいくうちにだんだんイタみが和らいでいくんで、中盤からはどんどん調子が上がってくる。それまでは「足を引きずりながら進んでる」感じだったけど、これなら間違いなく「走ってる」状態だ。回復のプロセスを実感できるのは、いつだって素晴らしい経験だ。たとえば、フルマラソンのあと。しばらくは体が重いんで、セーブしながら走る。3日くらい経つとだんだん体がほぐれてきて徐々にペースを上げられるようになる。一週間も経てば、普通に走れるほどに回復する。前日よりも今日、今日より明日、と日々上がっていくのがわかって楽しいもんだ。今回はその中でも特別にうれしい感覚。なんせ走れないほどの状態からの回復だ。下手したら長期間走れないんじゃないかって不安もあったんで、「普通に走れる」ことの喜びは想像以上だった。嬉しさを感じながら走り切れた10kmの道のりだった。
この時期読んでいた本がある。トル・ゴタス著「なぜ人は走るのか」(筑摩書房)だ。走ることについての古今東西の歴史、逸話をまとめた読み応えのある良書だった。その中でとりわけ心に残ったのが、ランニング依存症について書かれた部分。週6日以上のランニングを1年以上続けているランナーの75%が、精神医学上の定義に照らして「依存症」と判定されるそうだ。それでもそんな「依存症」のランナーたちは、『おのれの耽溺ぶりを笑い、大いに満足している』。まさに自分の今の考え方を端的に表してくれている言葉だ。足をケガしながらも、テーピングして、イタみどめ飲んで、足引きずりながら、それでも走る。誰に頼まれたわけでもなく、誰に褒められるわけでもない。ただただ走りたいから走る。そして得られるのは、さらなる足のイタみとそれを凌駕する特別な満足感だ。そりゃ笑うしかないな。こんな生活を気に入って毎日続けている。これからもそうでありたいと思ってる。



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