はじめに
2019/07/15
もともとランニングをはじめたのは、義兄に誘われてだった。「来年の藤沢市民マラソンに出よう。」その時は確かまだ夏で、準備の期間として半年近く取れるし、距離も16kmと聞いたんで、「それくらいなら大丈夫」と思い、「じゃあ出よう」と即答したように記憶している。自分は30歳を超えたばかりで、当時運動といえば、卓球やら浮き球やらを熱心にやっていたので、日頃から運動不足だと感じることは少なかった。でもランニングはまた別もの、はじめは数分間しか走れなかった。まず「何分間走れるか」っていう目標で、週に一度、休みの日に走ることにした。当時はランニング用のアプリも何も使わず、ただTシャツにウォーキングシューズで練習してたんで、自分がどんなペースでどのくらいの距離を走ったかもわかっていない。ただ半年間、まがいなりにもトレーニングを続けて、徐々に走れる時間も長くなっていった。自分が何km走ったかも定かではない状態で臨んだ初めての大会だったけど、特に体に支障をきたすことなく無事に完走。大したタイムじゃなかったけど、16km休まずに走れたことは自信になった。思えばそのトレーニングの日々がランニングの習慣がつくきっかけだ。
ランニングの習慣がついてすぐに感じたのは、「これは自分の性に合ってる」っていうこと。技術の上達のために、理念に基づいたトレーニングとか、人からの教示とか、様々な工夫が必要なものは、たぶん自分には合ってない。ランニングの上達のために、まず必要なのは、退屈な反復運動の繰り返しができるようになること。ただ愚直に同じことを繰り返しているだけで、タイムが伸びるんだから、とてもシンプルだ。そしてランニングの成果はほぼタイムだけで測られるから、それが伸びれば達成感が得られる。これが日々の生活での張りになっていった。もともとダラダラと反復を続けることは得意としている。日記を書き続けたり、腕立て伏せをし続けたり。思えばどちらも20年近く続けている。よくその話をすると「ストイックだね」なんて言われるけど、自分の感覚としては、決してストイックではない。むしろ極めることなく、ただ漫然と同じことを繰り返すことに向いているだけ。そして漫然とでも何かを続けるってことは、他の人にとっては、なかなかできることではないってこともわかってきた。人が苦と思うことが自分にとって苦ではないってのは、自分のストロングポイントになりうることだろう。
そんな訳でランニングは続けている。はじめ「走るのは週に1回」ってペースから、今では「走らないのは週に1回」ってペースに変わってる。目標も「月に100km」から「200km」「300km」となり、タイムも「サブ4」から「サブ 3.5」「サブ3」へとステップアップしていった。周りの記録を見てると、上を目指せばキリがない。でも見るのは、ただ自分の記録だけ。それもまた自分の性に合ってることのひとつ、単純にタイムとにらめっこして、自分の向上だけに意識を集中できる。だからゴールってものがなくて、常にモチベーションを持って走ることができる。
もっとも幸せな点は、自分の体が丈夫であるということ。これまで数年間走り続けてきて、故障はおろか、医者にいったこともなければ、整体やらマッサージを受けたことすらない。小さな痛みを除けば、どこかが痛くて走れなかったっていう時期もない。そこは誇らしいとともに、そんな体を作ってくれた親に感謝だ。
最近はじめたのが、「日本の全都道府県でランニングする」っていう企画。各地のフルマラソンの大会に出るってのが理想なんだけど、さすがにそこまでは難しいだろうから、「大会じゃなくても、その地に行って5km以上走る」ってことをルールに定めた。これがまた自分の大いなるモチベーションになってくれた。こんな楽しい企画を考えた自分に感謝したいくらいだ。もともと旅は好きなんだけど、どこかへ行くにも理由づけがなくて、億劫になっているようなところがあった。それが「走るため」っていう明確な理由ができることによって、自分の行動力も飛躍的に上がったような気がする。旅は楽しいもんだ。そこでの記憶は、ふとした時によみがえって、自分を豊かにしてくれる感じがする。せっかくこんな企画を始めたんだから、旅での出来事を文章にまとめてみようかなって思い立った。これもまたルーティンの一つに加えるから、余計やることが増えるのは間違いない。でも、漫然とした反復運動の繰り返しは、自分の得意とするところ。行って、ただおしまいだと何も残らない。拙くとも、紀行文くらい残せば何かが残る。紀行文は大袈裟かもしれない。単純な感想文でもいい。まあなんか残るものは作ろうっていう心持ちだ。
その気持ちを胸に秘め、「Foolish Journey 47」を書いていこうと思う。